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宣言書(manifesto)
第1部
序言
FOREWORD
親愛なる読者の皆さん、
皆さんと直接触れ合う方法が分からなかったので、私達はこの〈宣言書〉を通してこれを行っています。皆さんが開かれた精神でこの書を読まれ、少なくとも何らかの思考が皆様の中に生じることを私達は望んでいます。私達の願いは皆さんに、この「バラ十字友愛組織の姿勢」の正当性を確信してもらうようにすることではなく、これを皆さんと自由に分かち合うことです。もちろん私達は、この書が皆さんの心の琴線に触れることを望んでいます。もしそうならなければ、私達は皆さんの寛容の精神に訴えます…。
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1623年にバラ十字会は、パリのあらゆる場所の建物の壁に、謎めいた好奇心をそそるポスターを貼りました。それにはこう書かれていました。
「私達、すなわち〈バラ十字の高位の大学〉の評議員は、見える仕方でも見えない仕方でもこの市に滞在するが、それは〈正義の人〉が心を向ける〈最高位のもの〉の恩寵によってである。書物を使うことなく、また分け隔てなく、各人が滞在を選んだ国々のすべての言語を話す能力を、私達は実演して教授するが、それは同胞を死の過ちから引っぱり出すためである。」
「ただの好奇心から私達に会おうとする人は、決して私達を見出すことはない。しかしもし、私達の同胞として登録されることをその人の心の傾向が真剣に強いているのであれば、この街での集会の場所を知らせはしないが、意志の審判者である私達は、自分達のなす約束の真実をこの人が見られるようにする。なぜなら、探究者の真の望みに伴う思考は私達を彼のもとへと、そして彼を私達のもとへと導くからである。」
この数年前、それぞれ1614年、1615年、1616年に発行された「バラ十字友愛団の声明」、「バラ十字友愛団の信条告白」、「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学的結婚」という現在では著名になった三冊の〈宣言書〉の出版によって、バラ十字会は既に自身を知らしめていました。当時、この三冊の〈宣言書〉に、知的な団体だけではなく、政治的、宗教的な権威筋も多くの反応を示していました。1614年から1620年の間におよそ400もの小冊子、写本、書籍が出版されました。そのあるものはこれらの〈宣言書〉を賛美し、あるものは貶(けな)していました。しかしいずれにせよそれらの出版は、特に内陣秘教的世界において、大きな歴史的イベントとなりました。
「バラ十字友愛団の声明」(Fama Fraternitatis)は当時の政治的、そして宗教的指導者、科学者に向けられたものでした。ヨーロッパの全般的な状況についてはむしろ否定的な見解を述べている一方、クリスチャン・ローゼンクロイツ(1378-1484)の寓意的な物語を通して、〈バラ十字会〉の存在をこの書は明かしていました。〈バラ十字友愛団〉を誕生させる以前のこの人物の世界中への旅でこの物語は始まり、この人物の墓の発見で終わっています。この〈宣言書〉はその時すでに〈普遍的改革〉を求めて叫んでいました。
「バラ十字友愛団の信条告白」(Confessio Fraternitatis)は、一方では人類と社会の再生の必要性を主張することによって、他方ではこの再生を成就させることのできる哲学的知識が〈バラ十字友愛団〉にあることを指摘して第一の〈宣言書〉を補っています。〈この会〉の活動に参加し、そして人類の幸福のために奮闘することを願っている探究者たちに、この書は主に向けられたものです。この文書の予言的側面は当時の学者たちの興味を大いにそそったのでした。
上記の最初の二つの〈宣言書〉とは幾分異なった形式で、「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学的結婚」(Chymical Wedding of Christian Rosenkreutz)は〈啓発〉への探究を描写した入門儀式的な旅の事を語っています。この七日間の旅の大部分は、神秘的な城でなされ、その城ではある王とある女王の結婚が行われることになっていました。〈入門者〉のソウル=魂(花嫁)と〈創造主〉(花婿)との合一を成就するように〈入門者〉を導く霊的な発達のことを、「化学の結婚」は象徴的に物語っていました。
当時の歴史家、思想家、哲学者によって強調されていたように、これら三冊の〈宣言書〉の出版は取るに足らないものでも不適当なものでもありませんでした。ヨーロッパが政治的に分断され、経済的利益をめぐる争いによって引き裂かれ、深い存在的危機を体験している時に、それらの宣言書は発行されました。宗教戦争は不幸と荒廃の種を蒔(ま)き、家族の中にさえ分裂を生じさせていました。そして科学は急速に発達して、すでに物質主義への傾向を表していました。大多数の人々の生活状況は惨めなものでした。当時の変わりゆく社会は徹底的な転換の最中(さなか)にありましたが、しかし一般の人達の利益のための発展という指針を欠いていました…。
歴史は繰り返し、同じ出来事を定期的に、しかし概してより広大なスケールで演出します。このことから、最初の三冊の〈宣言書〉の発行からほぼ4世紀後の今、世界全体、特にヨーロッパがあらゆる領域、すなわち政治的、経済的、科学的、技術的、宗教的、道徳的、芸術的領域などで前代未聞の存在の危機に直面していることに気づく事ができます。さらに自分たちが生き、進化している私達の惑星が重大な脅威に直面していて、比較的最近の科学である生態学の重要性を上昇させています。確かなことに今日の人類はうまくいっていません。このことが理由で現代の〈バラ十字会〉は、自体の〈伝統〉と〈理想〉に忠実に、この「姿勢」を通してこの危機を訴えることが賢明であると見なしました。
「バラ十字友愛組織の姿勢」は終末論的な論評ではありません。それは全く黙示録的ではありません。今述べたように、その目的は今日の世界の状況に関する私達の姿勢を述べ、その未来について私達が心配していることを明らかにすることです。私達の過去の兄弟たちが当時既に行っていたように、更なる人道主義と霊性に私達もまた訴えようとしています。というのも、現代の社会に一般的に広がっている個人主義と物質主義は、当然の権利として人間が望む幸福をもたらすことは出来ないことを私達は確信しているからです。疑いなく、この「姿勢」はある人には人騒がせに思えることでしょう。しかしこのような格言があります。「意図的に聞くことも見ることもしない人ほどに、耳が聞こえず、目も見えない人がいるだろうか。」
今日の人類は苦悩していて困り果てています。物質的に達成してきた大きな進歩は本当の幸福をもたらさず、未来が穏(おだ)やかであると予見することを可能にしていません。戦争、飢饉、伝染病、生態系の大変動、社会的危機、基本的自由に対する攻撃―これらは人間が未来に対して抱(いだ)いている希望に対立する多くの悲惨な出来事のうちのほんのいくつかです。このことが、このメッセージを聞いて下さるすべての人に私達が訴えている理由です。このメッセージは17世紀のバラ十字会員たちが最初の三冊の〈宣言書〉で表現したのと同じ伝統の下(もと)にあります。しかしそのメッセージを理解するためには私達は、歴史という偉大な書物を現実主義に基づいて読み、人類に関する明確な見解を持たねばなりません―進化の過程にある男女から構成されているこの偉大な人類という集団に関してです。
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バラ十字会の姿勢
POSITIO R+C
この人生に関連しているすべてのもの、そして宇宙そのものと同じように、人は常に進化しています。これは存在する世界にある全てのものの特徴です。しかし人間の進化は、存在の物質的側面に限られてはいないと私達は感じています。自身にソウル(魂)があること、そしてソウルは人間の霊的側面であることを私達は確信しています。私達に伝えられている教えによれば、私達を意識のある存在にし、自身の起源と宿命とを熟考することを可能にしているのはこのソウルです。このことが、人間の進化はひとつの目的であり、霊性はひとつの手段であり、時間はひとりの啓発者であると、私達が見なしている理由です。
歴史は理解させてくれるのは、それ作り出している個々の出来事ではなく、また歴史が発生させている個々の出来事ではなく、むしろそのような出来事を統一しているそれらの関連です。それに加えて歴史は、より大きな全体的な意義を持っていて、様々な出来事は歴史の全体的な文脈の中で理解される必要があるということを今日の歴史家たちの大部分が認めています。歴史を理解するためには、様々な出来事は孤立した要素としてだけでなく、より大きな全体の部分として特に注意深く考慮されなければなりません。ある出来事は、それがその一部分である、より大きな全体との関係においてのみ、真に歴史的であると実際に感じられます。出来事をより大きな全体から分離させること、あるいはそのように分離したものから歴史的教訓を形成することは知的な欺瞞(ぎまん)を構成してしまいます。このことが理由で、見かけだけに思われる関連、並置、偶然の一致、同時発生のひとつとして、本当に偶然に起こってはいません。
序言で述べたように、現在の世界の状況と17世紀のヨーロッパの状況に私達は類似性を見ています。人々が「ポストモダンの時代」と述べている事柄が現代の生活の多くの領域にかなりの影響をもたらしてきていて、人間の堕落を不幸にも引き起こしてきています。しかしながら、この堕落はほんの一時的なものであり、個人的にも集合的にも再生が訪れると私達は感じています。しかしながらこれは、男性であっても女性であっても、人類が人道主義、霊的方向性を未来に与えるならばという条件付きです。もし私達がそうしないのであれば、今日直面している問題よりもはるかに深刻な事態に実際に身をさらす事になります。
私達の存在論の観点から、地球上で生きている全ての生き物の中で人間は最も進化していると私達は考えています。この地位にふさわしくない恥ずべき振る舞いを、たとえ人間がしばしば行っているとしてもです。この特権的な地位に人間があると主張する理由は、自己認識と自由意志が授けられていて、そのため自身の選んだように人生を考え、方向付けることができるという事です。また、それぞれの人間は全人類という単一の身体の中のひとつの要素としての細胞であると私達は信じています。この原則により、すべての人間が、生まれた国や住んでいる国家にかかわらず同じ権利を持つべきであり、同じ敬意が払われるべきであり、同じ自由を享受するべきであるという人道主義の概念を私達は持っています。
霊性に関する私達の考え方の基礎となっているのは、ひとつには〈創造主(神)〉は〈絶対知性〉として存在していて、宇宙とその中にある全てのものを創造してきたという確信であり、もうひとつは、それぞれの人には〈創造主〉から発しているソウル(魂)があるという確信です。さらに、創造されたもの全ての中に諸法則を通して〈創造主〉は表現されていて、より偉大な善のためにその法則は学習され、理解され、尊重されなければならないと私達は思っています。実際に人間は、〈聖なる企画〉の実現に向かって進化しており、人間は地球上に理想的な社会を創造することを宿命づけられていると私達は信じています。この霊的人道主義は空想的であると思われるかもしれません。しかしながら、プラトンが著作「国家」(The Republic)の中で述べている以下の事に私達は同意しています。「ユートピアが理想的な〈社会〉の形態である。おそらくそれをこの世で成し遂げるのは不可能であろう。しかしそこにこそ、賢明な人はすべての望みを置かねばならない。」
この歴史の変わり目において、異なる文化圏において意識に類似の特徴が発生していること、国際的な交流が一般化していること、豊かな成果が文化交流によって生み出されていること、ニュースが世界中に配信されていること、学問の異なった分野間で学際的な運動が成長しつつあることが理由で、人間の再生はかつてよりも可能性が高くなっていると私達は思っています。しかしこの再生は個人と集団との双方で起こるべきであり、これは折衷(せっちゅう)主義を支持することと、その当然の帰結である寛容によってのみもたらされると私達は思っています。実際に、政治的機関、宗教、哲学、あるいは科学のどれにも、真実に対する独占権はありません。しかしながら、これらの専門分野のそれぞれが人類に提供している最も高貴な側面を分かち合うことによってのみ、真実に近づくことが可能になります。この事は、多様性を通して単一性を探求することに私達を連れ戻します。
人生の移り変わりによって私達は遅かれ早かれ、この地上での自身の存在理由を熟考するように導かれます。正当な理由を求めるこの探究は自然なことです。というのもそれは人間のソウルの欠くことのできない部分であり、私達の進化の基礎を構成しているからです。さらに、歴史に大きな足跡を残した出来事は、存在したという事実のみでは正当化されません。それらは自身の存在の高位の理由、すなわち単なる存在の上位にあり存在を超越した理由を要求します。この「存在理由」(raison d’être)が人間を人生の神秘について自問させるように励ます霊的過程を含んでいると私達は信じています。その過程とは、進化のある時点において、神秘学と「真実の探求」に対して人が抱(いだ)く関心です。この探求が当然のものであるとすれば、自身の聖なる本性の命令によって、そして生き残るという生物としての本能によって、希望と楽観主義に向かって進む力が人間には与えられているということも私達は感じています。ですから超越性に対する熱望は、人間という種に不可欠な要求に思われます。
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政治的領域では、諸々の政治システムの完全な再生が不可欠であると私達は感じています。20世紀の主要な政治モデルの中で、マルクス・レーニン主義と国家社会主義(ナチズム)は、決定的であると推定された社会的仮定に基づいていましたが、理性の衰退とそして最終的には野蛮状態をもたらしました。これらふたつの全体主義的イデオロギーは必然的に人間の自己決定の要求に反することになり、これによって自由の権利を裏切り、同時に最も暗い歴史の数ページを書き出したのでした。そして歴史はこのふたつを不適格であるとしました。この決定が永遠であるよう望みましょう! それらを何であると私達が考えようと、単一の一枚岩的な観念に基づく政治的システムには、“〈救済〉の教理”を人に押しつけようとする要求が多くの場合共通してあります。それは人を不完全な状態から解放し、楽園的な状態に上昇させるはずであると考えられています。さらに、これらの政治システムの大部分は国民に考えることではなく、信じることを要求します。それらのシステムは事実上、人々を“宗派的ではない宗教”に結び付けます。
それとは逆に、バラ十字主義のような思想の持つ傾向は一枚岩的ではなく、開かれた多元的なものです。言い換えると、それらは他者との対話を奨励し、人間関係を深めます。同時にそれらの思想は物事の見解がいくつもある事と行動様式が多様であることを受け入れます。したがって、そのような思考システムは、意見の交換、相互に影響を与え合うこと、そして矛盾によってさえ養われています。それらは様々な全体主義的イデオロギーが禁じたり、避けたりしているものです。さらにこの理由から全体主義システムは、それがどんな性質のもであっても、首尾一貫して常にバラ十字思想を拒否してきました。私達の友愛組織はその創設期から、個人が自分自身の観念を自由に形成し表現する権利を提唱してきました。この点から、バラ十字会員は必ずしも自由思想家ではありませんが、全員自由に思考しています。
世界の今日の状況では、真の民主主義は、弱点が全くないと言うのではありませんが、それでも政治の最良の形態であり続けているように思われます。実際に、思想と表現の自由に基づいたいかなる真正な民主主義においても、統治されている人々の間にも、統治している人々においても多元的な傾向が一般に見られます。不幸にも、この多元性はしばしば分裂と、その結果である論争のすべてを引き起こします。残念ながらこれが理由で、ほとんどすべての民主主義国家で分派が発生し、それらは継続的かつほとんど組織的に互いに敵対しています。これらの政治的分派は、たいていの場合多数派や反対派の周囲に引きつけられていますが、もはや現代社会に最もふさわしいものではなく、人類の再生を抑制するものであると私達には思えます。この点から、国家的な事柄を最もうまく運営管理することのできる個人個人を集めた統治機関の発生を促すことを各国家が援助することが理想です。より広い意味では、今日の国際連合がちょうどその萌芽(ほうが)であるような、すべての国家を代表する全世界的規模の政府がいつの日にか出来ることを私達は望んでいます。
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経済に関しては、世界の状況は完全に漂流状態にあると私達は思っています。経済システムが人間の活動をますます条件付けするようになっているのを誰もが理解できます。そしてこれは日常的なことになりつつあります。今日、この経済的な圧制はかなりの影響力を持ち、そのため干渉主義者が表れて、様々な装(よそお)いのネットワークを構成しています。他方、今日の経済は明確な評価に従って活動しており、それらの評価は、かつてないほど必然的に定量化が可能となっています。そのような評価には、生産コスト、損得分岐点、利益評価、労働の持続時間等々があります。これらの諸評価は現在の経済システムにとって基本的なものであり、目的をなし遂げる手段をシステムに提供しています。不幸なことに、これらの目的は基本的に物質主義的です。なぜなら、それらは過度に利益を上げ、資産を増やすことに基づいているからです。このようにして人間が経済に奉仕するようにされましたが、本来は経済が人間に奉仕するべきです。
今日すべての国家は、全体主義的とも呼ぶことのできる世界規模の経済システムの属国となっています。この経済的全体主義は何億人もの人の最も基本的なニーズすらも満してはいません。一方で通貨の供給は、これまで決してなかったほど世界規模的な膨大なものになっています。このことは産出された富が少数の人々のみに恩恵を与えていることを意味しています。このことを私達は極めて残念に思っています。実際に、最も裕福な国家と最も貧しい国家との不均衡が止(とど)まることなく拡大しているのに私達は注目しています。各国で最も恵まれていない階層と最も運の良い階層の間に同じ現象を見ることができます。このことの理由は、経済があまりにも投機的なものになっており、現実というよりはむしろバーチャル(仮想現実的)な市場と利益を供給しているためだと私達は感じています。
極めて明らかなことですが、人類の全てに奉仕している時にのみ、経済はその役割を十分に果たしています。このことから私達は、金銭というものがどうあるべきかという考え方に導かれます。つまり人が物質的領域で幸福に暮らすために必要としているものを全ての人に供給するための交換の手段でありエネルギーであると金銭をみなすということです。この点から、人類は貧しいことや、まして一文無しであることを宿命づけられてはおらず、反対に、完全な精神的平安とともに意識のより高位の領域にソウルを上昇させるために、幸福のために役立つすべての物を持つように定められているということを私達は確信しています。〈絶対〉においては、もはや貧しい人々が存在せず、すべての人々が良い物質的状態を享受するような仕方で経済は用いられるべきです。というのも、それが人間の尊厳の基本だからです。貧困は宿命ではありません。それは聖なる命令の結果でもありません。一般的に言って、貧困は人間の利己主義の結果です。したがって、経済システムが分かち合いと共通の善の考慮に基づいているような日が到来するということを私達は望んでいます。しかしながら、地球の資源は無尽蔵ではなく、無限に分け合うことはできません。そこで人口過剰な国では特に、出生率をコントロールしなければならなくなることは確実でしょう。
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科学に関しては、特に危機的な局面に到達したと私達は思っています。科学がとても進歩し、それにより人類がかなりの進歩を遂(と)げることが出来たことは実際のところ誰も否定できません。科学なしでは、私達はいまだに〈石器時代〉にいることでしょう。しかし、ギリシア文化は科学研究の質的な理解をなし遂げましたが、17世紀には量的概念の優位が確立されることにより、紛(まぎ)れもなく大変動がもたらされました。それは経済の発展と密接に結びついています。機械論、合理主義、実証主義などは意識と物質を2つの極めて異なった領域に分けてしまい、すべての現象を主観性のない計測可能な存在へと貶(おとし)めてきました。方法を問う「いかにして」が、理由を問う「なぜ」を排除してしまいました。過去の数十年の間に行われた研究が重要な発見をもたらしたことは事実である一方で、財政的利害関係が他のすべてより優先されているように思え、現在私達は、科学的物質主義の頂点に到達しています。
私達は科学を自身の意志に服従させるのではなく、自身をその奴隷にしてきました。今日、単純な技術的過ちが最も進んだ社会を危機に陥(おとしい)れることがありえます。それは質的なものと量的なものとの間にだけではなく、自身と自分が作り出したものとの間にアンバランスを私達が育てて来たことを明らかにしています。今日人間が科学的研究を通して追い求めてきている物質主義的な目的は、多くの人の精神を混乱させてしまう結果となりました。同時に、これらの唯物論的目的は私達を自身のソウル(魂)から、そして自身の中の最も聖なるものから遠ざかるようにしてきました。科学による過度の合理化は、遅かれ早かれ人間を脅かすことになる真の危険です。実際に、物質が意識より優勢であるいかなる社会も、人間の本性の中に高貴さに欠けるものを促(うなが)します。したがってそのような社会は、かなりしばしば悲劇的な状態の中で、早々に自体が消え去るように自身に判決を下していることになります。
かなりの程度、科学は“宗教”になってしまいましたが、しかしそれは唯物論的な宗教になっていて、このことは逆説的です。宇宙、自然、人類自身への機械的なアプローチを基礎とし、科学には、独特な信条「見えているものだけを信じよ」と、固有の独断「科学の外に真実はない」があります。それにもかかわらず物事の「どのようにして」という方法に関して科学が行ってきた研究は、「なぜか」という理由への問いを導き、それによって少しずつ科学は自体の限界を認識するようになってきていて、この点で神秘学と同意し始めています。実際にはまだあまりにも少数ですが、ある科学者たちは〈創造主〉の存在を認めるところにまで到達しています。古代においては科学と神秘学は極めて類似のものであって、科学者は神秘家であり、逆もまた事実であったということに注目しなければなりません。私達が今後の何十年間になさねばならないことは、まさに、知識のこれら2つの道の再統一に向って努力することです。
知識の問題を再考することが必要になっています。たとえば、実験で得られる経験の再現性の真の意味は何でしょうか。実証することのできない主張はすべての場合に必然的に誤っているのでしょうか。17世紀に起った理性的な二元主義を超えることが緊急の課題であるように思えます。というのも真の知識はこの「超越性」、この広がりの中にあるからです。このことに関連して述べれば、人が〈創造主〉の存在を立証することができないということだけでは、〈創造主〉が存在しないと断言するのに十分ではありません。真実には多くの側面がありえます。合理性の名の下(もと)にそのうちのひとつだけしか思い起こさない事は理性への侮辱です。また、理性的あるいは非理性的ということについて正しく述べられるでしょうか。偶然の存在を信じている時、科学それ自体は理性的なのでしょうか。実際のところ、偶然を信じないことよりも、偶然を信じる事の方がよほど私達には非理性的に思えるのです。この同じ話題に関しては、私達の友愛組織が、偶然という一般的な観念に常に反対してきた事を述べておかなければなりません。偶然の観念は、現実と直面した時の、安易な解決でありあきらめであると私達は見なしています。アルバート・アインシュタインが偶然を「〈創造主〉が匿名でありたいと思う時に採(と)る道」と表現したコメントに私達は同意します。
科学の進歩は倫理的にも、形而上学的にも新しい諸課題を引き起こしています。遺伝学の研究が以前は不治であった病の治療法の信じられない程の進歩を可能にしてきたということが否定できない一方で、この同じ研究はクローン技術によって人間を創造することを可能にする進歩への道を拓(ひら)いてきました。この種の生殖は人類を遺伝学的に貧困にし、退化に導くことができるだけです。さらにそれは、主観性の印のついた選別の基準を必然的に意味しており、その結果優生学の問題に至った時には危険な要素を生じます。さらにクローン技術による複製は人間の肉体的、物質的部分のみを考慮しており、精神あるいはソウルへ特別な注意を払っていません。このことが、この遺伝学的操作は人間の尊厳に対してだけではなく、人間の精神的、心霊的、霊的誠実さにも害を与えると私達が感じている理由です。この点で、次の格言「良心のない科学はソウルの破滅である」に私達は同意しています。他の人間による人間の盗用は歴史の全体を通して悲しい記憶のみを残してきました。したがって、特に人間の、そして一般的には生物全てのクローン複製技術に関する実験に自由を与えることは危険なものに思えます。動物と植物の遺伝的構造に影響を与える繰作にも同じような恐れを私達は抱(いだ)いています。
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技術の領域でもまた、完全な変容が経験されていることに私達は注目しています。まさに最初の頃から人類は自身の生活状態を改善し、作業をより効果的にするために道具と機械を作ることを常に試みてきました。その最も肯定的な側面では、この欲求には元々主な3つの目標がありました。つまり、手だけでは作れないものを人間が作れるようにすること、苦悩と疲労を免(まぬが)れること、そして時間を節約することでした。もちろん、幾世紀もの間、あるいは何千年の間、技術は人間の手作業と肉体的活動を助けるためにのみ使用されていました。一方、今日それはまた知的な領域においても私達を助けています。さらに、かなり長い間技術は直接に人間が介在することを必要とする機械的過程に限られていて、環境に対してはほとんど、あるいは全く害を与えていませんでした。
今日、技術はほとんど欠くことができない程どこにでもあり、現代社会の核心部を構成しています。その用途は多く、それはすべての種類の過程、すなわち機械、電気、電子工学、コンピューター等を統合しています。不幸なことに、技術の暗黒面は、機械が人間自身に対する脅威となってきたということです。理論上は、機械は人間を助け、私達から若痛を取り除くように意図されていました。しかし今や機械は人間に取って代わりつつあります。さらに機械化によって、人間の触れ合い、すなわち身体的な触れ合いがかなり減ってきたという意味で、機械化の進行はますます社会の非人間化をもたらしているということが否定できません。これに加えて、あらゆる種類の公害が工業化によって生じています。
技術によって現在起きている問題は、人間の意識の進化よりも急速に技術が進歩してきたという事実から発しています。現代は物質主義が強調されていますが、そこから離脱して技術はヒューマニズム(人間主義)を代弁するものにならなくてはならないと私達は信じています。この事を実現するためには、再び人間を社会構造の中心に置くことが不可欠です。それが意味するのは、経済に関して私達が述べたのと同じように、機械が再び人間に奉仕するようにすることです。このことをなし遂げるためには、今日の社会の基礎を形成している物質主義的な価値への徹底的な問いかけが必要です。結果としてこのことが意味するのは、全ての人が自身を再教育し、日常生活の価値を尊重しなければならず、時間に対する熱狂した競争を止めねば
ならないと理解するようになることです。しかしながらこのことは、人間が今一度、自然とだけではなく自分自身とも調和して生きる方法を学んだ時にのみ可能になります。技術が人間を最も困難な作業から解放し、同時に私達が他者と触れ合いつつ調和して進化することが可能になるように技術が進歩することが理想です。