ダウジング
ジェームズ・R.モーガン
ダウジングの術については、過去数世紀の間,多くが語られてきたにも拘わらず,ほんのわずかの事柄だけが理解されています。この論文の目的は、ダウジングが作用するメカニズムについての、基本的ではあるが合理的な仮説を提示することです。そしてこの立場からいくつかの実際的な用途と、ダウジング使用にあたって起こりうる有害な結果についてのよりよい警告を提唱することです。
科学界の権威ある組織による、「水占い」や他の様々なやり方でのダウジングに対する激しいあざけりにもかかわらず、これらの技法が本当にうまくいくという事実は、警察やその他の政府機関や様々な団体、そして個人などが継続的に広く使用し続けていることにより、証明されています。さらには、古代人達は多くの種類の活動の指針をダウジングに頼っていたということが、だんだんとより明らかになりつつあるのです。
ダウジングの技術に熟達した人々は相当な数になるし,その応用は、医者が診断のために採用することから配管工が隠れたパイプのありかを突き止めることまでにも及んでいて様々になっているのですが、その作用の形態(メカニズム)に対する重要な洞察は誰一人として得ているとは思えないのです。
現代の研究者達が殆ど例外なく示しているダウジングに対する所見は、捜し出す対象物~水脈、石油、金鉱、行方不明者など~が何等かの目下未確認の性質を持つある種の電磁波信号を放射しているということです。
しかし、非常に多くの観察結果は、この推測とは矛盾しています。難点の一つは、仮定された放射エネルギーは実際は、距離に反比例して弱くなるという基本的原理に従って作用しないということです。時間の要素もまた注目できる関係は何も示しません。つまり、不思議にも過去の出来事を思い起こすことができるのと同じように、未来の事象も予言出来るのです。地図を使うダウジングに使用される地図が、水脈や行方不明者の固有の放射エネルギーを放つとはとても想像できません。最後に、日付とか、今後1ヶ月先の株価のような無形の観念は、光線やX線と同種の有形の電磁エネルギーを放射しているとはとても考えられません。
アカシック・レコード
神秘主義の観点からは、ダウジングが作用するであろうと思えるかなり明白なメカニズムとなるのは、ある管理された方法の下でアカシック・レコードと接触する方法です。「ある管理された方法」の重要性は、強調し過ぎることはできない程重要なのですが、これは、客観的知性がもし宇宙内の全知識~過去も未来も含めた~を無制限に浴びせかけられた場合にはすっかり圧倒されてしまうという簡単な理由によるのです。この考えを拡大すると通常の、客観的な、知性的に理性的な意識の状態は、アカシック・レコードに必然的に含有されている宇宙的知識の圧倒的な大海から隔離してくれる盾を自動的に与えてくれているように思えるのです。
ダウジングの本質は、それゆえに2段階の過程になっていると思われます。最初の段階は、意識を客観的状態と下意識的状態の中間で、まだ僅かに客観的状態側にとどまらせつつ、ほとんど均衡の状態になるようにすることです。第2の段階は、受け取ろうとしている情報だけが出てこられる,選択性のある「窓」をアカシック・レコ-ドの中に開くことです。具体的な言い方をすれば、まず、どうやって家賃を払おうかとか、ティーンエージの息子や娘にいかにして道理をわきまえさせようか等というような気を散らす強力な雑念が浮かぶのを排除して、客観的意識の勢力を弱めていきます。客観的意識の勢力が抑えられたら次の段階では、求めている知識または情報を明確な、あいまいでない心像にして精神内に保持して望んでいるものが現れるようにします。発声は不必要であり、人によっては気を散らすこともあります。
私個人の経験や他のダウザー達の経験は、アカシック・レコードの中の知識、つまりダウジングによって潜在的に利用可能な知識は、無限であることを強調しています。このことこそが、得ようとする知識を明確化することが絶対的に必要であることの理由なのです。この点を明らかにする為に一つの例をあげると、初歩のダウザーが家庭用の井戸を掘る場所を捜している場合、ダウジングしている間じゅうずっと、ただ単に水を視覚化していることはよく知られていることですが、このことは注目に値することです。ダウジングによって示された場所に井戸を掘ってみると、わき出た水は溶け込んだ鉱物を含んでいて、飲用に適していないのです。従って熟達した水のダウザー(水占い者)は、澄んでいてきれいな飲める水を、そして欲する流量を求めるようにするのです。
答えを捜す
ダウジングは潜在的には質問に対する解答を得るのに役立つものです。この応用においては、ダウジングの器具の使い方を繰習することによるかなりの準備作業が必要とされます。その器具が伝統的なニ股の木の枝、L字型の棒、振り子、あるいは他のものであっても、わかりやすく明示される、あいまいでない「イエス」の応答と、同じように明確な「ノー」の応答が得られるようにするためには相当練習する必要があります。
ダウジング器具とのこのような親密な関係を開発した上では、ある答えを得る為の質問は、答えがイエスかノーかのどちらかの唯一つの答になるように、きわめて明確に、かつあいまいでない形態になっていなければなりません。数字だけを必要とする答え(ある日付のような)は、振り子の揺れの数のような、ダウジング器具の反応の回数に相当する適切な数字で確かめることができます。しかしほとんどのダウザーは次のような方法で数字の答えを得るのを好みます:「…の日付は…よりも早いか?」次の質問は全く同じ形式のものですが、次々と数字を大きくしたり小さくしたりして行ってその範囲を狭くして行って、満足のいくぴったりの数字が得られるようにします。
ある古いことわざが言うには、「火はよい召し使いだが、悪い主人でもある。」同じ考え方がダウジングの利用についても疑いなく当てはまります。カルマの概念は全ての特権にはそれぞれにつり合った義務があるという意味を含んでいます。ダウジングは疑問の余地なく、超越的な潜在的パワー(力)の道具です。このため、その使用には、無限に強力な全く容赦しない監視の目が見守っているので、賢明に非利己的に用いる責任が伴うのです。従って、どんな初心のダウザーも、ダウザーとしての活動の初期に必ず行っておかなくてはならない慎重な行動は、ダウジングはその人に好ましくないカルマの負債をこうむらせるような用途には決して働かないと言う不変の規則を下意識内に作り上げておくことであると思われます。私はこれを実行しましたが、以前私がある行方不明の人を見つけるように依頼されたときには、このことこそが期待する成果をもたらせてくれたのだと信じています。その人の所在を突き止めるだけでなく、その失踪についての周辺の事情を明らかにすることをもくろんだ私の質問に対しては、私のダウジング棒は答を出すことを全く拒んだのでした。私の精神内には、得ようとしている情報を公表することは、誰かのカルマ的プライバシーを犯す取りかえしのつかない侵入行為になるという、強い下意識的解釈が発生してきたのでした。
ダウジングにおけるカルマ的側面についての、ある興味深い結論は、私たちの宗教という奇妙な概念の究極の起源は、その中にあるのかもしれないというその可能性です。私たちがダウジングによって、また他の心霊的方法により獲得した情報ばかりでなく、数多くの他の面でも<母なる大自然>の恩恵を多くこうむっていることは自明のことです。このように、この恩恵による負債に対して支払うという生来の、主として下意識的な衝動は完全に論理にかなっているのです。そしておそらくはこのような恩恵をもたらす幸福な事態を持続させるためには必要でもあるでしょう。それゆえに、熟考すべき興味深い概念となるのは、現代の教条的な宗派主義とは全く反する広義の意昧での宗教は、<母なる大自然>の不変の法則との切り離すことのできない私たちのかかわり合いを、主として下意識的に意識していることから、直接的に派生したものであり、従ってそれは負債を支払うための客観的な努力なのであるということです。
ダウジングの利用にあたって起こり得るもう一つの潜在的な危険は、もしここで提唱されているメカニズムが大体にでも正しいのであるとすると、そうするとダウザーは必ず客観的意識と下意識的意識との中間の境界線に接近してそれを行なっていることになり、そこでは観念が客観的意識から下意識的意識に流れ込むことができるのです。私たちが学習するバラ十字会の教義によれば、下意識的意識内に流れ込んだ観念は不変の法則となり、もはや理性に従いません。従って、初心者のダウザーには、最も厳格な意味において精神と良心が潔白でない限り、決してダウジングの術を行なってはならないということを忠告しておくことは特に大切なことです。
最後の実際的な忠告として、最も幅広く活動している老練なダウザーでさえ認めているある事実を強調しておきます。それは、たとえア力シック・レコードが絶対的に正しい信頼できるものであるとしても、私たち人間であるダウザーは、質問の仕方あるいは反応の解釈の仕方に過ちを犯すことがありうるということです。つまり、ダウジングの成果というものは、最も熟練したタウザーの場合でさえ、誤りがありうるのです。
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