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古代エジプト人の神の観念と“異端者”イクナートン

Egyptian Spirituality and the Akhnaton “Heresy”

F. R. C. アール・モット
By Earle de Motte, F. R. C.

古代エジプト人の神の観念
Egyptian Spirituality

  古代エジプトに、魔術を含まない真の意味での宗教を導入した始祖、偉大な模範であり指導者であったイクナートンという人物についての記録は、文書には残されていません。イクナートンが、第18王朝期に行なった、新たな宗教を興そうという試みの成果は、短い期間で失われてしまいました。エジプトという強大な王国の統治と維持は、当初から「真実と正義」(マート:Maat)と呼ばれる道徳基準によって支えられていましたが、それは社会だけでなく個人の生活にも貫かれていました。倫理的な行動の原則であれば、ハルドジェデフやプタハヘテプ、アメンエムオペト、宰相カゲムニなど、多くの人物によって書かれたものがありますが、それらはいずれも、個別の事例について、社会や個人がその責任においてどのように対処したらよいかを、直接述べただけのものでした。そして、これらの原則を正しく実践すると、死後にその報酬があるとされていました。反対に、これらの原則に従わなかった場合にどうなるのかということを、エジプト人がどのように考えていたのかということは、正確には分かっていません。少なくとも、従わないことは望ましくなく、的外れであると考えられていたとだけは言うことができるようです。

  古代エジプトの宗教について語るには、多少の説明を必要とします。というのも、宗教的な行いのことを指す単語は「ハカ」(Haka)すなわち“魔術”を意味するものだったからであり(Naydlerの文献の124ページを参照)、高位の「神々」として崇拝されていた存在は、実際のところ、様々な原理であり、影響力や作用のことだったからです。それゆえに、エジプトの“宗教”とは、精神的な崇拝と魔術がないまぜになったものだったと言うことができます。つまり、熱心な信者は、単に特定の神や原理を崇拝していただけではなく、呪文や供物を通して、そうした神を操作しようとしていました。しかし、仮にこうしたことが事実であるとしても、古代エジプトの“埋葬品”に記された文書や、葬儀の際に行われた式典を研究していくと、サリーム教授の下した次の判断を支持したいと感じるようになります。「エジプトの“宗教”こそが、人類史上最も高度に発達した、心の深奥を扱う一貫した方法であった。」と彼は述べています。

イクナートンの家族のレリーフの一部

イクナートンの家族のレリーフの一部

  古代エジプトの神々の真の性質と、人々が神々に与えた地位について、驚くほど学者たちの意見は割れています。そうした状況ではありますが、古代エジプト人は、宇宙に影響を及ぼす存在を神と呼び、そのようなものとして、最高神と他の神々を信仰していたという点では多くの学者の意見が一致しています。どの神を重要視するかは、地域や民族によって異なっていました。当時のエジプトが多神教であったのか一神教であったのかという点をめぐって、19世紀から20世紀にかけて、一大論争が巻き起こりました。人間の思想の進歩という観点で見たときに、多神教と一神教のどちらが先に生じたのかということが問題になったのです。このことについて論じた学者の名前を幾人か挙げただけでも、この論争が、とても多くの人を巻き込んでいたということをご理解いただけることと思います。

  1820年代にシャンポリオンは、エジプトに存在したのは一神教だけであり、複数の神々を表す語は、唯一の神の見かけ上の違いを表しているとしました。1869年にド・ルジェは、「自体を原因として存在すること」(self-existence)が、この唯一の神の性質であるとしました。1890年代にティーレは、多神教から一神教という変遷があったと考えました。彼が今日も生きていたら、正反対の見解を持つ神学者たちに、反論を受けていたことでしょう。1880~90年代のことですが、マスペロは唯一神の、「唯一」(sole)という言葉に注目しました。この言葉は、それまでは、エジプト全土に唯一の神しかいないことを示唆していました。しかし、実際には、国全体に唯一の神が存在したわけではなく、各地域にそれぞれの唯一の神がいることを、この言葉は指していたのでした。また1884年には、ド・プルクシュが、エジプト人が信仰していたのは、定義することのできる性質を持たない「永遠の神」であることを突き止めました。この発見は、神々の中でも最も偉大な神「偉大なるネター」(Great Neter)という語が表していたのは何なのかということについての現代の解釈に極めて近いものです(訳注)。

訳注:「ネテル」(neteru:Neterの複数形)とは、唯一の神から発する様々な影響のことであり、その源である唯一神「ネター」(Neter)は、限定的な性質を全く持たないので、直接知ることは決してできず、影響であるネテルを通してのみ知ることができるという、現代の古代エジプト学者の解釈。

  1950年代に入ると、ウォーリス・バッジは、次のように述べて、エジプト宗教は一神教であるという説を支持しました。しかし、多神教と一神教が共存したという可能性を退けてはいません。

 「古代エジプトの文献を研究した者は、エジプト人が唯一神を信仰していたことを確信する。その神とは、自体を原因として存在し、不死であり、不可視であり、永遠に存在し、全知全能であり、理解を超越した存在であった。また、天上と地上とあの世、空と海、男と女、動植物、神の使者である非物質的存在の作者であった。(中略)。この注目に値する信仰が存在しなかった時期を、我々が発見することは決してないように思われる。」

影響力、原理あるいは法則と作用としての「神々」
"Gods" as Powers, Principles or Laws and Functions.

 ヴィーデマンは注意深い研究の結果、一神教と多神教という論争を避け、古代エジプトの宗教が3つの要素の複合体であるとする結論を出しています。そのうちのひとつの要素は太陽崇拝の一神教であり、第2の要素は自然の再生力の崇拝であり、そして最後の要素は、半人半神的な存在への信仰です(バッジによる引用、30~31ページ)。それに対して、ウィリアム・ヴァン・デン・ドゥンゲンは、エジプト宗教には単一神教、すなわち、多数の神を認めながら、その中のひとつ神を崇拝する傾向があったと述べています。これは興味深い見解です。というのも、王国内部では悲惨な宗教紛争が比較的少なかったことが、このことによって説明されるからです(デン・ドゥンゲンのウェブサイトより)。

  「ネテル」という言葉の解釈の仕方に話を戻します。この語が、宇宙に及ぼされる様々な影響力や、人間に見られる様々な優れた能力を意味するものだとすれば、一神教と多神教という論争は、あまり激しいものではなくなると思われます。「ネテル」という語が固有の事物を指す言葉として使われたことは決してなかったと1860年にレヌーフは述べています。彼が意味していたのは、擬人化された神や、他の(命を持った)存在を表すために、「ネテル」という言葉が使われたことは決してなかったということなのでしょう。ウォーリス・バッジはさらに明確な立場を採り、「偉大な宇宙の影響力や、その他の超自然な影響力だけでなく、肉体を持つ、死を定めとする人間が及ぼす影響力も含めた無数の影響力」を、「ネテル」という語の定義に付け加えています。ローズマリー・クラークは、この見方をさらに徹底して、「神話に登場する神々とは、人間からの連想により生じた何らかの擬人的存在を指すのではなく、自然界にある様々な影響力と、人間の魂の本質、あるいはさらに適切に言えば、無意識の元型(訳注)のことを指す」と述べています。

イクナートンの「アトンへの賛歌」より抜粋

「おお、命に満ちあふれるアトンよ、……木々と草花は生い茂り、鳥たちは巣から飛び立つ、その羽は、あなたのカーを賛美しつつ……」(アイ(Ay)の墓から見つかった『アトンへの賛歌』より抜粋)

訳注:ユング派の心理学の用語である元型とは、夢などで生じてくるイメージや象徴の源となる、すべての個人の精神に共通する、祖先から受け継いだ無意識の働きのこと。

  一部のエリートと一般の人々のどちらの意識にも受け入れられるように、2種類の異なる信仰が同時に奨励されていたとする説は、一神教と多神教をめぐる込み入った問題を、私たちが理解するための助けになるかもしれません。神や宇宙や人間の神秘に関して、2つのレベルの理解の仕方が広まっていた可能性があります。洗練された科学的な見解では、この世に影響を及ぼす唯一で至高の存在があり、その影響を伝える、他の複数の存在によって、この唯一の存在は自体の働きをなし遂げます。おそらく、高い教育を受けた人々、王国の高官、神秘学派の参入者たちは、このような見方をしていたのでしょう。このような人々が次に、天上にいる存在(唯一神を代理する超人的な存在、つまり人格を備えた神々)についての信仰を、他の人々に広めたのだと思われます。これらの人々は、人格を持たない神や、その性質ということが理解できなかったのです。

“異端者”イクナートンによる既存宗教の打破
The Akhnaten "Heresy"

  早い時期から、「偉大なるネター」の象徴(至高の存在の力の表れである、空に輝く太陽)は、多くのエジプト人にとって、神聖なるものの表れでした。第18王朝を迎えた頃には、テーベの聖職者たちはすでに堅固な地位を獲得していて、アモン・ラー(Amun-Ra)という王国の主神が成立し、その神官たちがエジプト神権政治を支配していました。イクナートンの即位は、これらの人々すべてにとって、大きな脅威となりました。以前から「ラー」は、「至高のネター」が目に見える形でこの世に現れた姿であると考えられていました。そして「ラー」の名は、古王国の一地方の守護神であった「アモン」の名前と融合しました。こうした神々の融合は特別なことではありません。こうすることで、どうしても起きがちな宗教対立が回避されていたのです。

  イクナートンが試みた宗教改革の種子は、2代前のファラオのトトメス4世の治世から、すでに蒔かれていました。トトメス4世は、アトン(Aton)を、ラーとは異なる独立した太陽神のひとりであるとしました。そして、その息子であるアメンホテプ3世は、地方の守護神であったこのアトンを国の守護神に格上げしました。他の神々は、必ずしも排斥されたわけではなく、単一神教(多数の神を認めながら、特にそのうちのひとつの神を信仰する宗教)において、さほど重要でない神として位置づけられました。イクナートンは、既存宗教の打倒をさらに過激に推し進め、アトンを万物の神として公に宣言し、それ以外の神は一切認めませんでした。そして、アモン神や他の神々の痕跡や象徴を、すべて抹消しようとしました。この時点こそが、はっきりとした一神教が出現した瞬間である主張している学者がいます。

  しかしながら、イクナートンの一神論は目新しいどころか、ある太陽神を、別の太陽神に置き換えようとしただけの試みのように思われます。唯一神の宣言であれば、イクナートンの時代以前にも、ラーやアモン、サイス(第26王朝の首都の守護女神)の場合になされたことが分かっています。それにもかかわらず、イクナートンが「一神教の開祖」であるとされるのはなぜなのか。この問いはこれまでにもなされてきました。ひとつの理由は、イクナートンの一神論が、世界3大宗教とされるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の先駆けになったという点にあります。3大宗教が育まれたのは、いずれも、イスラエルからペルシア湾北岸にかけての、いわゆる「肥沃な三日月地帯」であり、そこでは神は唯一であり、「他の神々」は認めないという教えが信奉されていました。この教えがどのようにして全世界に伝播していったのかは、この記事の範囲内で扱うことはできません。しかし、ここでは、イクナートンの一神教が、アトン以外の神を容認しないという断固たる態度に貫かれていたことを詳しく調べていきます。このことは、エジプトの単一神教の終焉を知らせる弔いの鐘になったのです。彼は、最高神との合一に最も近い者であるという地位を、ファラオである自分だけのものとしました。そして、イクナートン自身を通してしか、神と接触することはできないとさえしたのです。彼のこうした態度を端的に表す例があります。祝祭の時にくり出す彼の帆船には最高神の像を掲げることはなされず、その替わりに、崇拝する民衆には、王家の人々の像が示されました。そしてついに彼は、個人を尊重する考え方から、宗教が社会を支配するシステムに対立する立場を取るようになります。数千年にわたって続いてきたこのシステムは、人々の考え方に枠組みを与え、「マート」という道徳規準のおかげで、安定性と秩序をずっと保ってきたのです。イクナートンの取った行動は、あまりにも急進的であり、果たして賢明であったのかと問うこともできるほどです。

  当時の社会秩序は、唯一神によって支えられ促されたものであっても、多数の神々によってそうされたものであっても、天地創造の神話を手本と仰ぐことで存続しようとしていました。社会は、天地創造のように、堅固で変わらない存在であるべきなのでした。しかし同時に、社会のダイナミックな活動のためには、周期的で一定の原則に従う変化が用意されていました。ラーとオシリスについての様々な神話がまとめ上げられて、この神権政治の秩序を保つための杭となっていました。それゆえに、イクナートンの新たな方向付けは、あまりに性急で時期尚早なものであったという結論を出したくなります。しかし、早急な判断を下してはならないのは私たちも同じであり、まずは現代に至るまでの時代の経過で起こった様々な出来事を考察してみなければなりません。そのためには、適切な問いを設定して、検討しなければなりません。

イクナートンが歴史に与えた衝撃
Impact of Akhnaten on History

太陽の円盤

 そこで、次の問いから始めましょう。イクナートンが展開した「既製権力組織の打倒」の試みのどのような点が、それほど革新的だったのでしょうか。また、人間の宗教意識の歴史的転換という点では、彼をどのように位置づけたらよいのでしょうか。考察の出発点として指摘しますが、古代エジプトの文献の中には、アモンが太陽神であるという記述はどこにも書かれていません。太陽神はラーであったのです。イクナートンは、自身の神アトンに、より明確な定義とより強大な意味を与えたのです。円形をした太陽の光は、生命の魂の源である、非物質的な創造力を意味する重要なシンボルでした。このことが事実である証拠は、イクナートンの自作の詩として有名な『アトンへの賛歌』や、彼が命じて作らせた美術品に見ることができます。彼が歴史上初の一神教の信仰者ではないとしても、「それまでの他のいかなる宗教にも増して、一神教を目指して突き進んだ」(シルバーマン、82ページ)のは彼であり、「他の世界宗教の発達に深く影響を与えることとなる基本概念をいち早く提唱した」(同上文献)人物なのです。彼の神についての理論は、前向きなものであり、生命と、愛に満ちた絆を重んじていました。善と悪、光と闇が対立を繰り返すという、陽陰からなる二元論や、個人の生前の行いが黄泉の国で裁かれるといった教えは、全くと言っていいほど、彼の思想には含まれていません。イクナートンは、現実から目を背けたのでしょうか。この問いに対しては、次のような結論を出すことだけはできるでしょう。彼は、地上と天界にまつわるエジプト人の因習的な考え方を現実として引き継ぎながら、人々を二元論という先入観から引き離して、〈一なるもの〉が存在するという実感で人々の心を満たそうとしたのです。このファラオにとっては、アトンこそがすべてであり、アトンに匹敵する存在はひとつもありませんでした。

  イクナートンは、自身の宗教を、民衆に広めようとしたどころか、世界全体に広げようとさえしていました。彼や王家の人々がアトンとともにある時の絆は、模範として人々に示され、人々が、それと同じ絆に参加するならば、すべての人々が、この地上にある至福の地に入ることができるのでした。それは、向上心にあふれる魂と神との間にある、愛に基づく真の絆であり、固定的な道徳律の命令や、すでにある慣習的な規定に対して、エジプトの庶民に忠誠を誓わせるような絆ではなかったのです。こうした絆を重視したことは、目立ちはしませんでしたが、宇宙に存在する互いに補い合う2つの力、男性と女性の間の調和を生き生きと保つ上で、大きな役割を果たしました。彼の唱える一神論には、神の女性的な側面に対する深い尊敬の念が表れていたからです。妃のネフェルティティは、復活し、再び現れたイシス神となる予定だったのです。

 この記事のまとめを述べたいと思います。ご理解していただけたことと思いますが、イクナートンが即位するまでは、社会システムの枠組みとして、宗教が人々を支配し続けていました。しかし、多神教と単一神教という旧来の型を打破して、一神教に進むということは、社会システムが宗教に支配されている限りできなかったのです。イクナートンの企ては歴史の上では短命に終わりました。しかしその企ては、宗教支配という枠組みを変革し、神の本質そのもの、さらに、人間と神との関わり方を変えました。そして、その後の3千年にわたる宗教に絶大な影響を及ぼしたのです。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.126)の記事のひとつです。

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