バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その3 三重の火

クリスチャン・レビッセ

 バラ十字思想の起源を調査することにあたって、我々は西洋秘伝主義の根源を探求した。しかし、十字の上にバラの花が咲くようにした背景については、今まだ検討しなくてはならない。たしかに我々には、バラ十字運動が発達した時代の全体の概要を描き出す必要がある。それによって、我々はバラ十字宣言書がヨーロッパ文明に与えた驚くべき影響を理解できることになるだろう。17世紀の初めに、ヨーロッパは完全に変容しつつあった。この状況を言葉にすれば、「ヨーロッパ意識の危機」という言い回しがしばしば使用されてきている。A・コイレ(A.Koyre) は、「ヨーロッパの精神は深い霊的な大変革を経験もしくは完了したが、その大変革は我々ヨーロッパ人のあり方の土台や、思考の構造までをも変えてしまった。」と書いた。我々はヨーロッパの歴史のなかでバラ十字思想が演じた独自の役割と、そしてバラ十字会の著作物が如何にしてその当時のヨーロッパが直面していた危機に可能な解答を提供するように思えたかを指摘するためにこれらについて述べることにする。

無限の宇宙

 新しい宇宙論の発達は17世紀を特徴づける混乱と全く関係がないわけではなかった。実際、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus,1473-1543) の地動説の発見後間もなく、天文学はそれまでずっと君臨していた天動説を放棄した。閉ざされた世界のイメージは、地球~そしてその結果の人類~がもはや世界の中心ではなくなった無限の宇宙へと置き換えられた。一瞬にして、天動説で惑星の運行を説明していた周転円の理論はこれによってくつがえされてしまった。この無効な理論は、コンフェシオ・フラテルニタティスの第13章であざ笑われていた。

 この新しい世界観は、三つの相反する立場を擁立した。第一は、ガリレオ(Galileo,1564-1642) によって、世界が幾何学的な次元へとまとめられ、宇宙観を合理的な世界へと導いた新たな科学的な態度が打ち立てられ、広められた。最近のオランダの発見を活用して、ガリレオは数学と観測とを結びつけることができるようした望遠鏡を発明したのであった。我々は聖書とは全く正反対であるガリレオの世界観に直面したときのキリスト教会の態度を容易に想像できる。教会関係者達は地動説を非難し、ガリレオは直ちに地動説の理論を放棄するように強いられた。この出来事は、カトリック教会と科学の亀裂を浮かび上がらせ、独断的な狂信によって科学的な研究が押しつぶされていく長い時代の始まりとなった。ジョルダーノ・ブルーノとガリレオはこの非難の矢面に立たされた。

 ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,1571-1630) は、第三の道を示した。ガリレオと同時代のケプラーは、ドイツのヘルメス、ルドルフ2世の宮廷でティコ・ブラーエ(Tyco Brahe)の助手をしていた。ケプラーの異なる宇宙観は、ルネッサンスのヘルメス思想と太陽中心の思想を結合させたものであった。彼の「宇宙の神秘(Mysterium cosmographicum,1596) で、ケプラーは世界のソールの中心を太陽とし、太陽は各惑星のソールに動きを与える源であるとした。

 この新たな宇宙のビジョンはもともとデモクリトス(Democritus)によって主張されていた概念~宇宙は真空の中で運動している~が再び突然持ち出されたことになった。アリストテレスの時代から、この主題は重要性がないとして、ほとんど顧みられてこなかったが、ここ16世紀になって異なる視点から見られた。全能の神に挑戦するこの理論は、現在でさえ論争の的である。ファマ・フラテルニタティスの「真空は存在しない」という声明はこの理由によるものに疑いない。これらの全ての要素によって、人類と宇宙との関係は変化した。後者はもはや神話的ではなくなった。というのは今や宇宙は、良識をもって詳細に調査されうる、膨大な歯車から成る複雑なひとつの機械として見られていたのである。

世界の目録

 同様の状況が地上世界にも当てはめられた。そしてその限界は1492年のヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見と、1498年のインド航路発見によって広められた。それらの航海は、最初の偉大な地図の進歩に貢献し、1544年に出版されたセバスチャン・ミュンスターの「世界誌」(the Cosmographia of Sebastian Munster) は瞬く間に成功をおさめた。そして、同様に称賛されたゲルハルドゥス・メルカトルの世界地図(Atlas of Gerhardus Mercator) もその一つであった。また、印刷板に文字を彫り込む印刷技術の向上は、科学的な業績の急速な拡大をも導いた。16世紀には世界のたくさんの自然の豊かな財宝を指摘した最初の「目録」が出版された。この運動の代表的なものは、ドイツのストラスブルグのオットー・ブルンフェルス(Otto Brunfels of Strasbourg) とテュービンゲンのレオンハート・フックス(Leonhart Fuchs of Tubingen)によって出版された膨大な薬草の本であった。また同様の業績が、スイスのコンラート・フォン・ゲスナー(Konrad von Gesner) とイタリアはボローニャのウリッセ・アルドロバンディ(Ulisse Aldrovandi) とフランスのギョーム・ロンデレ(Guillaume Rondelet)とピエール・ベロン(Puerre Belon)などによってそれぞれ編集され、膨大な量の本草学書が出版された。この時代、ヨーロッパの王族達もまた、自然の驚異を収集することに熱中した。~このことから、重要な珍しい品々の飾り棚に、様々な風変わりなものが集められていた。この点では、とりわけ皇帝ルドルフ2世はそのような風変わりな品々を所持することはそれらの魔法の力を持つことになると決めこんでいたことで、特に興味深いものであった。

解剖された人間

 大宇宙のビジョンが変化したので、小宇宙のビジョンもまた進化した。1543年、コペルニクスの地動説の本が出現した同じ年に、アンドレアス・ベザリウス(Andreas Vesalius,1514-1564)は、医学史上の中核を成す偉業、「人間の身体の構造(De Humani Corporis Fabrica)」を出版した。人間の解剖学の礎となったこの書物は、ガレーヌス(Galen,c.131-201) の見解を攻撃し、医学界で主流であった権威的な考えについて熟考を促すこととなった。医学界の改革に強い影響を与えた別のグループの書物は、パラケルススなどの著作であった。1560年からヨハン・フーザー(Johann Huser)は、この医学のパイオニアの手稿の編集に着手し、パラケルススの著作はついには全十巻(1589-1591) にまとめあげられ、出版へとこぎつけた。さらにまた、医学の発展に貢献したのは、ミデルブルフの眼鏡師ザカライアス・ヤンセンによる顕微鏡の発明であった。~この発見は、コーネリス・ドレベル(Cornelis Drebbel)他によるとされる説もあるが。すぐ後に「医学界のコペルニクス」、ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey,1578-1657)は、血液の循環に関する彼の発見を明らかにした、「動物の心臓並びに血液の運動に関する解剖学的研究(De Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus) 」を出版した。
 これらの諸要素は、全体として人類の宇宙観を刷新するのに役立った。もはや人類は、執念深い神によって追放された世界の神秘について黙想することはなくなった。神学はもはや世界を理解するために必要ではなくなった。むしろ、人類は万物を支配する様々な力について観察し、計算し、理解した。自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたのである。

宗教改革

 科学が変容されている間に、宗教は爛熟の危機を迎えていた。これは前例のない出来事ではなかった。というのはキリスト教はすでに1378年に教会の大分裂によって二つに分かれてしまっていた。野心的な枢機卿達の党派によって二人の法王~一人はアビニヨン派のクレメンス7世ともう一人はローマ派のウルバヌス6世~が擁立された。二人とも、敵対する相手の法王を教会から除名していた。この敵対する二人の法王の残念な有様は、1417年まで続いた。その上、印刷技術の発明により、思考の普及がもっと容易になり、ルネッサンスの人文主義思想が、様々な霊的な情報源へと活路を開いた。そのような主義は、彼ら独自の宗教を熟考するとき、多くの思索者達の思想にとってはおそらく、的外れではなかった。彼らはそれぞれ、キリスト教会が完成した聖職のあり方と、いかにそれか過度に世俗のことに夢中になっているかに疑問を提じた。
 西洋のキリスト教会の統合は、聖書の精神に還れと主張したルターの宗教改革によってもう一度まっぷたつに分裂した。1517年にルターは、ローマ派によって制定された免償と聖遺物の商業化を非難する95ヶ条の意見書を提示した。宗教改革者達は、救済は個人の働きからではなく、個人の信仰から引き出された神の恩寵であり、人類によって確立された教条を越えた聖書に権威があるのだという事実を強調した。ルターはまた、キリスト教会が人々を誇大な迷信で縛りつけていると非難した。わずかの年月の間に、イギリスはヘンリー8世(1532)の治世にローマから分離し、北欧の国々も同様にローマ法王への臣従の義務から降りた。

反乱

 不運にも宗教改革は、過剰を引き起こした。すぐに宗教改革はいかにして達成されるべきかについての論争が起こった。1522年と1523年に多くのドイツ貴族達が新しい「真の信仰」を広げようとした。そして高位の権威に叛旗を翻した。すぐそのあと、1524年から1526年にかけて、ドイツで同様に農民達が武器をとり、農民戦争が起こった。この国々の王族と貴族達は、彼らを聖書と直接つながるのを妨げているとの説を信じていて、彼らの使命は真の信仰を回復させることであるとして、その目的に反するものは全て打ち壊すことになんら躊躇しなかった。宗教改革は、神聖ローマ帝国の勢力均衡を驚異にさらす、無数の政治的問題を引き起こした。1556年の後にチャールズ5世の後に即位した皇帝たちは、宗教的寛容(ルドルフ2世)とカトリックの妥協拒否(フェルディナンド2世)の間で動揺した。その状況はついには1618年、帝国の長官たちがプラハ城の窓からプロテスタントの信徒によって外へ放り出された「プラハの窓外放出事件」によって破られた。この行為はドイツを、その約半分の国民が殺されることとなった30年戦争へと引きこむこととなった。

反宗教改革

 カトリック教会はトリエント宗教会議(1545-1563) で新しく発足した反宗教改革をはじめて、プロテスタント達の非難に対抗した。この宗教会議は、厳格な規律によって特徴づけられていた。異端審問所は新たなあり方をとり、「信仰の教理のための新教組合教会派」がつくられた。後者は、禁書目録を出版するように命じられ、その慣例は、ついこの間の1966年にようやく廃止された。ルネッサンス期に書かれた数え切れないほどの秘伝主義と科学的な著作がこの禁書目録に載せられた。そのような出来事によって、秘伝主義の実践者達が部外者を排除した秘密結社をやむなく形成することとなったのは疑うべくもない。

宗教戦争

 ドイツは再び、1554年と1555年のアウグスブルグの宗教和議によってつかの間の平和を取り戻した。しかし今度はフランスで戦いの火蓋が切って落とされた。1562年フランスでヴァッシーの虐殺が起こり、新教徒が大量に殺されて宗教戦争が勃発した。1572年に起こった聖バルテルミーの大虐殺は、カトリック勢力とプロテスタント勢力の争いに決定的な変化を記した。両方の陣営は防御体制にあり、カトリック教徒はカルビン主義者と戦うために神聖同盟を結び、一方ではヨーロッパ中のプロテスタントの貴族達がその反対勢力として団結した。フランスの混乱は最後にはヘンリー4世の統治のもとで鎮火した。1594年2月に行われたヘンリー4世の戴冠式は、この王が全てのキリスト教徒を和解させることのできる人物であると多くの人々からみなされていたため、大いなる希望をもって望まれた。その支持者の中の一人には、ヨーロッパ中に全般的な改革を説いてまわっていたジョルダーノ・ブルーノがいた。ブルーノは自らの希望をヘンリー3世に託していたにもかかわらず、ヘンリー4世が時の人となることを感じていた。トマソ・カンパネラは、同様にこの王が改革を為し遂げることに全ての希望を託していた。

 そのような状況は当時ヨーロッパ中にある文書が行き渡ることによって支援された。それには、ヘンリー4世はキリストの復活の前にキリスト教徒達の団結を復活させる「新ダビデ」、「古代の予言者たち」の王であると述べてあった。このような声明は、ヘンリー王のプロテスタントの貴族達の同盟をつくる試みで支援されていた。この実現のため、彼はドイツに使者としてギョーム・アンセル(Guillaume Ancel) を送った。ジョルダーノ・ブルーノもまたこの計画でひとつの役割を果たした可能性がある。サイモン・ステューディオン(Simon Studion) はナオメトリア(Naometria,1604)の中で、1586年にリューネブルグでカトリック同盟に対抗する目的で、Militia Crucifera Evangelicaという福音派の防御同盟を結成するために、ナヴァル王アンリ(後のヘンリー4世)と、スコットランド王ジェームズ4世(後のイングランド王ジェームズ1世)と、ビュルテンベルク王フレデリックの間に同盟を結ぶ密会を取り上げた2 。1610年、ヘンリー4世が暗殺され、この希望は完全に閉ざされてしまった。ヨーロッパに荒廃を横たわらせたこの辛酸な体験は、1612年トライアノ・ボッカリーニによって出版された「パルナサスからの広告」に言及されている。この著作は、ハプスブルグ家によってうちたてられたカトリック教会の指導権に対して非難する論文で、ヘンリー4世こそが真の英雄であるとした。この著者はヨーロッパに平和をもたらす全世界的な改革が為し遂げられるチャンスは、幻影に過ぎなかったことを悟ったようであった。ボッカリーニの著作の「全世界の万人の改革」という題の著作のある章が、いくつかの版のファーマ・フラテルニタティスの序文に載せられていたことは偶然ではなかった。

キリストの模倣

 同じ頃、ヨーロッパでは12世紀以降新たな霊性を形作ろうとの運動が実を結びつつあった。それらの運動には、自由な霊の兄弟会(The Brothers of the Free Spirit) 、神の友の会(the Friends of God)、ベグイン修道会(the Beguines)、ベガーズ(the Beghards)といった団体が含まれていた。ここに挙げられた団体では、マイスター・エックハート(Meister Eckhart) 、ヨハネス・タウラー(Johannes Tauler) 、ハインリッヒ・ゾイゼ(Heinrich Suso) 、ヤン・ヴァン・ロイスブルーク(Jan van Rysbroek)などの哲学的手法と内的平安に関連していた教師たちが数えられていた。オランダで14世紀の終わりに起こったデボーショ・モデルナ(Devotio Moderna) は、敬虔さと内的な禁欲主義を強調する運動で、それはドイツにも広がっていった。この霊的運動は『キリストの模倣』(Imitation of Christ) という本に結晶し、17世紀のバラ十字会員達にたいへん尊重された。

神秘の結婚

 この新たな霊性の主唱者達の中に、それもとりわけプロテスタント運動の活動家の中に、3人の突出した人物がいたことを述べなくてはならない。第一の人物はヴァレンティン・ワイゲル(Velentin Weigel,1533-1588) で、エックハートらの流れをくむもの、パラケルススの魔術的錬金術運動~心霊論者のシュベンクフェルト(Schwenckfeld)とセバスティアン・フランク(Sebastien Franck)のもの~などの自分と同時代の様々な思想を統合しようと奮闘したことで興味深い人物である。彼は内的な変性と再生の働きを中心としたたいへん内面的な修道方法を説いた。そして古代の碑文「汝自身を知れ」に基づいた知識の理論を開拓した。

 第二の人物は、フィリッペ・ニコライ(Philippe Nicolai,1556-1608)で、「新敬虔」(new piety) のパイオニアであった。彼も先達者たちのように、神秘的結婚の形を取った再生の過程を力説した。その著書、『永遠の生命の喜びの鏡』(The Mirror of the Joys of the Eternal Life,1599) の中で、彼はこの再生には7つの段階があると述べた。ニコライはヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae) に強い影響を与えていた。

 第三の人物は特に興味深いのだが、ヨハン・アルント(Johann Arndt)で、ドイツ敬虔派の先覚者といえる人物である。彼の著書、『真のキリスト教』(True Christianity) は、300回の再版に及ぶ見事な成功をおさめた。我々はハインリッヒ・クンラス(Heinrich Khunrath) の著作 Amphithearum Sapientiae Aeternae についての評釈は、この神学者であり錬金術師であるアルントに感謝せねばなるまい。『自然の書』(Book of Nature)に関する彼の評釈の抜粋は、ほとんどそのままの語句でバラ十字宣言書の中に見ることができる。二人の先達者たちと同じように、アルントは再生の必要性を強調していた。アンドレーエはアルントを霊的な父親と認めていたのであった。

 我々が注目してきたように、16世紀の宗教情勢は爆発的なものであった。しかしプロテスタントの第三世代においては、疑念は鎮火していた。プロテスタント運動は、その地位を正当化しようとするあまり、全ての責任をカトリックのせいにするという神学上の行き過ぎに落ちいってしまっていた。改革者達は今や、第二の宗教改革の必要性を自らに問うていた。その間にこの状況と平行して、ルネッサンスの秘伝主義がキリスト教神秘学を豊かにしていた。

精霊の時代

 この間にドイツは疫病と、さらには不運な気候上の原因による飢饉と戦っていた。1604年から1605年にかけての彗星の出現は、人々の想像力をかきたて、至福千年期到来の気運に拍車をかけた。実際、数え切れないほどの予言がその当時の時代の終わりを発表していた。フローリスのヨアキム(Joachim of Floris) の予言は、とりわけ人気があった。この12世紀の修道士は、世界の歴史は三つの時代として展開したとの学説を発展させていた。第一は、「父の時代」で、アダムから始まった。これはイエス・キリストによって始められた「息子の時代」に続き、第三は「精霊の時代」で、これは時の終わりによって示されるのだった。ヨアキムによると、この最後の時代は1260年に始まり、新たな教会の出現によって特徴づけられ、ぺテロによって始められた教会に取ってかわることになる。また、この新しい宗教は、修道会的本質になり、ボニ・エレミタエ(Boni Eremitae) の組織によって指導されるとされていた。1215年、第四次ラテラン評議会が開催された時にイノセント3世はヨアキムの考えを非難したが、しかしそれでもなお、この三つの時代の学説は現存し続けていた。16世紀には、これらの概念は広く行き渡っており、多くの人々が精霊の時代が近いと考えていた。この学説はバラ十字宣言書の中でも触れられていた。

『ナオメトリア』(Naometria)

 1604年に、サイモン・ステューディオンは『ナオメトリア』(殿堂を計る方法、(The Art of Measuring the Temple) )を書き上げていた。この著作は、ヘンリー4世とイングランドのジェームズ1世とヴュルテンベルクのフレデリックにに献呈されていて、約2000ページから成っていた。これにはヤコブ・レダレイン(Jakob Lederlein) による装飾画が施されており、その中の一つはフローリスのヨアキム著の Vaticinia seu praedictiones の中に見られる挿し絵から転載されたものてあった。『ナオメトリア』の中で、サイモン・ステューディオンは未来の出来事について予言していた。ヨハネの黙示録とフローリスのヨアキムからインスピレーションを得て、彼の著作は黙示録的見解を提示し、エリヤに先んじてキリストが再来すると説いた。

 サイモン・ステューディオンは、ケプラーの師であるミカエル・メストリン(Michael M〓stlin) と極めて近しい、数学者で天文学者のサミュエル・ハイランド(Samuel Heyland)の下で神秘的算術を学習していた。ステューディオンはそれぞれ30年間で終わるフローリスのヨアキムの42の世代の概念を踏襲し、最後の30年は1560年から1590年の間に到来したのだと考えていた。この期間は世界の歴史の最後の時代~精霊の時代~の幕開けとして記されていた。ステューディオンは、改革はクルース・シグナティ(Cruce Signati) の特定の啓示を受けた人々によって導かれると告知した。彼は精霊の時代の千年に先んじていた三人の証人について(直接名を挙げることなしに)話していた。一人目の人物は1483年(ルターの生まれた年)に生まれ、二人目は1543年(ステューディオン自身の生まれた年)に生まれたと述べた。ステューディオンは三人目の人物はその出現がまだ期待されているとだけ述べた。彼の著作はある企画を扱っていた~それは1586年リューネブルグで組織された一連の組織化に準じた新しい「ミリシア (Militia)」の大会を招集するプロジェクトに関するものであった。この大会は、改革評議会としてコンスタンス地方で組織され、キリストが再来すると期待されていた1621年の神聖な審判について準備がなされるのだった。

 A.E.ウェイト(A.E.Waite) はその著書、『バラ十字会員の真の歴史』(The Real History of the Rosicrucians,1887) の中でバラ十字思想は Militia Crucifera Evangelica (ミリシア・クルシフェラ・エバンジェリカ)に続くものだと述べた。しかしすぐその後に、彼はこの仮説を放棄した。ある人々は、『ナオメトリア』の271ページの挿し絵の中にバラ十字を見たのだと信じていた。このことから、ステューディオンがバラ十字会員の先駆者であったことが推測された。しかしながら、このことは注意深く検討する必要がある。この絵を綿密に調べてみると、中心にある円が小さい十字を取り囲んでおり、一連の同心円とそれらの日付に関連する腕木が浮かび上がってくる。しかし『ナオメトリア』はドイツのテュービンゲンのバラ十字会員たちのグループに相当大きな影響を与えていたことに注目されねばならない。 同時代にユリウス・スペーバー(Julius Sperber)による『魔術』(De Magia)という題の稿本が出回っていた。1596年に、この著者は新時代を宣言する任務を与えられたのだと夢見た。彼はパラケルスス、ルター、ペトルス・ラムス(Petrus Ramus)、ギョーム・ポステル(Guillaume Postel)らの著作の中に、革新の始まりの印を見た。スペーバーはフローリスのヨアキムの三つの時代の学説を取り上げ、精霊の時代は差し迫ってきており、エリヤが黄金時代を設立するために再来するであろうと主張した。彼はまた、全ての言語の元型を発見した、そして新しい世界を組織するための適切な秘法を知っているので、彼の呼びかけに応える全ての人々が彼のところに集まるように招待した。スペーバーの思想の一部は、バラ十字宣言書の中に明らかにされているテーマの中にいくらかが反映されている。

エリヤの予言

 プロテスタントの世界は、そのような至福千年期到来論者たちの概念をとりわけ受け入れやすかった。ルターですら、その著作 Supputatio annorum mundi(1540) の中でタルマッド(Talmud, ユダヤの法典)の中に基づくもので、ルネッサンス期のカバラ研究者達によって一般的流行に再び取り入れられたエリヤの予言を思い起こしていた。この予言は、宇宙は6000年続き、時の終りに千年期が続くであろうと言っていた。ルターにとっては、1532年は世界が創造されてから5640年目に相当した。彼は従って、時の終りは極めて近いと考えていた。コンフェシオ・フラテルニタティスの第四章もこの予言について触れていて、「次の第6の大キャンドルに光が灯される」と述べられており、言い換えれば、6000年が終りに近くなっている事実を述べていた。再洗礼主義者のメルキオール・ホフマン (Melchior Hoffman)もまた、1533年が世界の終末を示す千年期の始まりであると予見した。その前の世紀に、ギョーム・ポステルは1543年に始まって世界の終末は差し迫ってきていると信じていたし、ピコ・デラ・ミランドラもまた、エリヤの予言を使い、1583年がパントクラティックの年 (Pantocratic Year)になると主張していた。

北のライオン

 1614年に出されたファーマ・フラテルニタティスでは、大公マクリミリアン(Archduke Maxmilian)の公証人アダム・ハスルマイアー(Adam Haselmeyer) によって彼らに書かれた手紙を著者たちは転載している。このパラケルスス主義者は、1613年を終末の時として確信しており、彼が発表した1614年の最後の審判の使者たちがすぐにも出現すると確信していた。ここで我々にとって興味深いのは、この著者は当時ヨーロッパで極めて一般的だった予言~「セプテントリオン(北)のライオンの予言」~に触れていたことである。それは誤ってパラケルススの著作であると見なされていたが、それは、「エリヤの術 (Elias Artista) 」という名がパラケルスス著の『鉱物の書(De Mineralibus)』の中でも触れられていることによるものに疑いない。実際、その原本は1605年前後に出回っていた。この予言は、三つの莫大な財宝がイタリアとババリア、そしてスペインとフランスの間に位置した場所で発見された後で、宗教世界と政治の両方での大変革が差し迫っていると予言していた。それらの宝を発見した人々は、その富を人道主義の目的のために使うであろう。そしてそれらの宝の中にはパラケルスス主義の手順に従った〈偉大な仕事〉の秘密が書いてある書物などが含まれていた。その予言は反キリストに対する戦いを人々の心の中に出現させ、ファーマ・フラテルニタティスの始めの部分の中で批判されたアリストテレスとガレノスの二人や詭弁者達を攻撃していた。なおその上、エリヤあるいは、「大いなる術」(Ars Magna) の先生の一人の「エリヤの術」が再来すると発表していた。

 この予言が成功した理由は疑うべくもなく、喜びの時代を打ち立てる前に、黄色いライオンが北からやってきて、鷲と戦うという時代を発表したことにあった。この予言は時として錬金術的文献として読むこともできた。(ライオンと鷲は錬金術の図解の中で硫黄と水銀を結合させる過程を象徴する時に使用された。)そして別の時には、政治的にも読むことができた(鷲のハプスブルグ家とフレデリック2世のライオンの戦いとして)。コンフェシオ・フラテルニタティスの第6章では、この予言に触れている。

バラ色の血の予言

 一つの最後の予言は注目に値する~すなわち、パラケルススがその著作 Aurora Philosophorum の中で発表したものである。この本の中で彼は、終末の時にはキリストが人類を救済するために到来したのと同じように、ある清浄な人物がバラ色の血のしずくをにじみ出させることによって、万物を浄化し開放して、世界は「堕落」から救われるということを示していた。

三重の火

 1603年に、木星と土星が三角形をとり、(占星術ではこの2つの星の間の角度が120度であるのは、たいへん能動的な角度である)三重の火(牡羊座、獅子座、射手座)の位置にあった。多くの人々はこれについては幸先のよい時代が来る前兆であると認めていた。次の年には、新星あるいは超新星が同じ三角形の中に出現した。ヨハネス・ケプラーは、De Stella nova et coincidente principio Trigoni ignei (1606,Prague) の中でこの天の宮の中に差し迫った政治的そして宗教的な変革の兆候を見ていた。彼はこの新星の出現と新しい宗教運動の扇動者となる人物の誕生との類似性を見ていた。この人物の使命は、キリスト教に敵対する兄弟達を和解させて「穏当な改革」をもたらすことであった。コンフェシオ・フラテルニタティスは、この新しい段階に触れて、我々が天空のヘビ座とハクチョウ座の星座の中に見ることのできる証拠を〈創造主〉が示したのだと言及していた。またここで、1604年にクリスチャン・ローゼンクロイツの墓が発見されたことも忘れるべきではない。

 この概説はバラ十字思想が誕生した時代の複雑性~科学の新発見の数々と宗教界を悩ませている敵愾心の両方による~を明示している。我々は、これらの要素は終末論的風潮が優勢であったことに加えて、16世紀末に生きていた人々を攻撃していた多くの恐怖を垣間見せてくれているのである。この難局から彼らを解き放つには、どのような解決策が出現するのだろうか?この時にこそ、「バラ十字のこだま」が鳴り響いてきたのであったが、このシリーズの次の記事にそれを見出だすことができる。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.84)の記事のひとつです。

 

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