バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その9 『哲学者たちとバラ十字』第一部(後半)

クリスチャン・レビッセ

国際人ポリュビオス

 ソフィー・ジャマ(Sophie Jama)が没頭していた、デカルトの三つの夢についての研究の中で彼女は、デカルトの生涯の中のこの挿話に立ち返った。これを行っている時にまだ出版されることのなかったデカルトの初期の論文 Tresor mathematique de Po1ybe 1e cosmopo1ite(国際人ポリビュオスの数学的財宝)を考察した。ルネ・デカルトはすべての数学的障害を解決しようと試み、この仕事は「世界中の学問のある人々、とりわけG.(ドイツ)国内でよく知られているF.R.C.(バラ十字の兄弟たち)のため」であることを示した。バラ十字宣言書の呼びかけに応じて本を出版した17世紀の他の思索家たちと同様に、ルネ・デカルトは疑問の余地なく心の中に同じ目的を抱いていたのだと、ソフィー・ジャマは感じていたのだ。ボヘミアの白い山の戦い以後の劇的な数々の出来事と、フランス国内で反宗教改革運動に従事していたカトリック教徒に蔓延していた分派主義が、デカルトにこの計画を急がせることになったのはまず間違いない。デカルトの友人ヨハン・ファウルハーバーがバラ十字会に献呈した著書 Mysterium arithmeticum...の目的とデカルトの論文の目的はよく似ていることをここに付け加えておこう。

 デカルト自身は如何なるバラ十字会員にも出会ったことはないと否定しているが、デカルトがバラ十字の諸概念に固執していたことについてよく考えてみる必要がある。バラ十字宣言書の中の顕著な諸概念と、デカルトのOlympicaや他の著作を比較してみると、バラ十字の諸概念はデカルトにとって些細なものどころか、デカルトの哲学的思索をより豊かにしていることをソフィー・ジャマは著作の中で示している。ジャマはまた、デカルトがドイツでバラ十字会員には誰一人として出会っていなかったとしても、三つの夢などの予見的体験を通して<バラ十字>に出会っていたのではないかとまで示唆している。

オランダ(Holland)

 ルネ・デカルトはフランス国内を圧倒していた不穏な社会的動揺を不安に思っていた。そこで静穏の中で研究に没頭するため1628年にオランダのライデン市近郊に移った。ある確実な歴史的資料が、オランダ国内にバラ十字思想が急遠に広まったことを示している。前回の記事で述べたように、フリードリヒ5世が「白い山の戦い」(1620)の後に避難所を求めたのもまさにこの地であった。ファマ・フラテルニタティスは早くも1615年にオランダ語版 Fama Fraternitatis Oft Ontdeckinge van de Broederschap des loflijcken Ordens des Roosen-Cruyces(Gerdruckt na de Copye van Jan Berner, Francfort, Anno 1615)に翻訳された。この翻訳版には、アンドレアス・ホーヴァーヴェシェル・フォン・ホーヴァンフェルト(Andreas Hobervesche1 von Hobernfeld)がバラ十字会に入会を請うている一通の手紙が含まれていた。もともとプラハ出身のこの人物は、ハーグ市に亡命したフリードリヒ5世に随行してきたのだった。また、オランダにバラ十字会員が存在していたことは、アントワープ市の有名な画家ピーター・ポール・ルーベンス(Peter Paul Rubens)からニコラス・クロード・ファーブリ・ド・ペレシュス(Nicolas-C1aude Fabri de Peiresc)に宛てて書かれた手紙によってもわかっている。ルーベンスの1623年8月10日付の書簡には、バラ十字会員たちはアムステルダム市ですでに何年にもわたって活動していると書いてあった。しかしながらこの情報は、バラ十字会がハーグ市の一つの宮殿を所有していたというオルビウス(Orvius)の声明と同様に、オランダ国内でのバラ十字運動の真の発展を画くにはあまりにも不確かなものである。

 しかし確実に言い得るのは、1624年に治安判事裁判所関係者の間で交わされた手紙の中で、ハールレム市のバラ十字会の集まりが糾弾されたことである。ライデンの神学者たちは、ある組織が現れて教会の清廉さについて議論していると嘆いていた。神学者たちはその一団が政治的および宗教的な問題を引き起こすと感じたのであった。そして翌年の6月に政務官が調査を命じた。オランダ宮廷はライデン市の神学者たちにコンフェシオ・フラテルニタティスの分析に取り掛かるよう依頼した。この調査はJudicium Facultatis Theologicae in Academia Leydensi de secta Fraternitatis Roseae Crucis という報告書になり、これによりオランダの役人はバラ十字会員を狩り出すこととなった。

 そしてすぐに、鎌金術を行っていた画家のヨハネス・シモンズ・トーレンティウス(Johannes Symonsz Torrentius)がオランダのバラ十字会員たちの指導者であると明らかにされた。トーレンティウスは友人のクリスチャン・コッペンス(Christiaen Coppens)とともに1627年8月30日に逮捕された。法的措置が決定されるまでの5年間、この画家は苛酷な尋問を受け続けた。しかし苛酷な拷問にもかかわらず、彼はバラ十字会員であることを否定し続けた。それにもかかわらず火刑の判決がなされたが、その後すぐに20年の投獄に変更された。しかし彼にとって幸運なことに、ほんの2,3年投獄されただけだった。画家仲間の支援とイギリス王チャールズ1世の仲裁により、彼は1630年に釈放されてロンドンに居住することが許された。同じ年、ピーター・モルミウス(Peter Mormius)はライデン市で Arcana totius naturae secretissima, nec hacenus unquam detecta, a collegio Rosiano in lucem produntur (自然の秘密の全て)を出版した。この本はドーフィネ生まれのフランス人、フレデリック・ローズ(Frédéric Rose)によるバラ十字運動の発足について述べていた。この主題については今後また取り上げることにしよう。

錬金術の誘惑

 カトリック教会はこの時代、本当に魔法使いたちの紛れもない迫害をしていた。1610年には、ある終りのない裁判の後、ジョルダーノ・ブルーノはローマで生きながらにして火あぶりにされた。すぐその後、ガリレオも迫害された。デカルトは1633年にガリレオの非難を知り、地動説に基づいて宇宙を論じた『世界論』(Le Monde)を破棄しようと考えた。彼は用心するに越したことはないと感じたのだ。また、1637年に完成した『方法序説』(Discours de la méthode)の中では、あえて錬金術師や占星術師や魔術師たちの教理を「悪い教理」であると非難した。1640年7月付けの友人メルセンヌ宛ての手紙でも、デカルトは錬金術と、その秘教的言語を批判した。また三要素~硫黄と塩と水銀~の原理に異議を唱えた。しかしながらデカルトの手紙は、彼が錬金術に興味をもっていたことと、錬金術の諸原理.をよく承知していたことを示している。何年にも渡って彼がこの錬金術の科学に興味を抱いていたのは明らかである。このことに関してジーン・フランソワーズ・メラー(Jean-François Mai1lard)は、驚くべき素晴らしい事実に光を当てた。メラーは、デカルトが1640年頃に友人のコルネリウス・フォン・ホーゲランド(Cornelis van Hoge1and)の実験室で錬金術に没頭していたと報告した。このことに関して彼は、ある誘惑が避けられたのではなく、論理によって抑えられて中止されたのだったことを物語っている。結果的には、『方法序説』の著者の傾注は数学や幾何学、気象学や医学あるいは光学などの他の科学によってさらに拍車がかかっていった。

 しかしルネ・デカルトは錬金術に興味を抱いていたにもかかわらず、その時代の秘教とは距離をおいていたことをここで強調せねばなるまい。デカルトは、類推や類似の理論、象徴主義によって思考することを拒否した。彼にとっては、明確で明瞭なアイデアかあるいは完全に分析できるような概念だけが「真の知識」へと導いてくれるものなのだった。それらは人間に生来備わっている数学的真理であり、人間に世界を理解させてくれるだろうと考えていた。デカルトは更に、もし我々が完全無欠と無限の概念を理解することができるとするならば、それは<創造主>が我々の中にそのしるしを入れたからであると考えた。

 その上デカルトは最終的原因を拒絶したのであった。なぜなら彼は、<創造>と事物の目的を理解する試みの全ても拒絶したからであった。デカルトは、もし彼が物理学を形而上学に基づいたものにしていたとしたら、それは彼は我々のソウルの中にもともとある数学的真理は、自然世界を物理世界を通して説明できるようにしてくれ、人類を『自然の主人で所有者」にしてくれると考えたからだった。デカルトは神秘的な本質の自然界を洗練して自然界は自動機械の模型(モデル)に従った明確化した幾何学的塊りの一連のものであると考え、確実な数学的真理によって知られていて計測することもできる塊りからなっていると考えていた。この機械論的な<天地創造>の概念は、<自然>を、存在する万物の鍵と見て、人間が通じ合うことのできる生ける現実であるとしたパラケルススが提示した概念とは全く異なっている。それでもなお、デカルトのこの取り組み方は人類を回りくどい蒙昧主義の時代から近代科学知識の時代へと導き、人々は危険な先入観や過度の迷信から開放されていったのであった。

 しかし、デカルトの考え方のいくつかの側面はバラ十字の考え方に近いものであることをここに言及しておこう。デカルトが不毛な思索を拒否し、『人生に大いに役立つ知識』を熱望したことは、ファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの根幹をなす要点を思い起こさせる。セルジュ・ユタン(Serge Hutin)はこう指摘している。『「秩序だてて疑うこと」、体験を強調すること、迷信と戦うことの必要性などについては、このような観点はバラ十字思想の一般的なものの見方に極めてよく合っている。』また多くの点で、とりわけ直観と推論がお互いに補い合う役割をしていることや松果腺の機能に関してはデカルトの思想は、近代バラ十字思想の理論に非常に近いこともここに記しておこう。ルネ・デカルトは文字通りの意味においてはバラ十字会員ではなかったが、それでもなお我々は、デカルトがその生涯の一時期にバラ十字会員に関心を抱いていたという範囲において、彼はバラ十字会員であったと考えたい。デカルトのこの関心は彼に哲学体系を完成させた成熟過程によるものだった。

 奇妙なことにルネ・デカルトは晩年、バラ十字会の擁護者であった、不運な王フリードリヒ5世の王女エリザベスのたいへん親しい友人であった。事実、エリザベス王女はデカルトの弟子の一人になったのだった。哲学者デカルトが彼女に献上した著作の中には、『哲学の原理』(Principia,1644)や『情念論』(Treatise on the Passions)があった。三十年戦争を終わらせるウェストファリア条約(1644)が締結された後、王女はボヘミアの領地を取り戻し、デカルトを近くに住むように招いた。しかし不運にもこの哲学者はクリスティーナ女王に招かれたスウェーデン宮廷で1650年の2月にその生涯を閉じ、この計画は実現しなかった。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.98)の記事のひとつです。

 

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